
こんにちは、ユアンです。
今日は「夏休み」について考えたことをエッセイ風に書いていこうと思います。
小学生の夏休みは長い。
毎日「ひまだ」と言ってくる息子に、
「ひまもいいもんだよ。たっぷりとひまを味わったらいいよ」と声をかける。
息子は不満そうに鼻をならし、床に体をなげだす。
「テレビ見たい」「You Tube 見たい」とうなる。
ふと、自分が小学生のころは夏休みに何をしていただろうかと考えた。
キャンプ。田舎のおばあちゃんの家。毎年恒例の信州への家族旅行。
図書館。プール。地蔵盆。
いくつかのイベントと小さな楽しみ。
けれど、それ以外のほとんどの時間は、無限ともいえるほど長くて、夏休みは永遠に終わらないような気がしていた。
近所に年の近い友だちもいなかったので、ほとんど家の中で過ごしていた。
私はいったいあの果てしない時間を、どうすごしていたのだろう。
あの頃の小学生の夏やすみ
ふと思い出したことがある。
自分の部屋で、窓をあけて、ただ寝ころんで空を見ていた。
夏の雲がぽっかり浮かび、かたちを変えてただよっていくのを、ただじっとしずかに眺めていた。
1回や2回のできごとではなかったはずだ。
もしかすると、毎日そうしていたのかもしれない。
夏休みのけだるい午後。私はただ雲をながめていた。
何かを考えていたかもしれないし、何も考えていなかったような気もする。
そこに音楽はなかった。
開け放した窓から、鴨川のせみの大合唱が流れこんでいた。
夏休みに雲を眺めていた人たち


夫にも聞いてみた。小学生の夏休みは何をしていたのか。
夫はしずかにひとしきり考え、
「ほぼずっと、ラジオを聴きながら雲を眺めていた気がする」
と答えた。
雲、か。
(けれどそこには音楽があったらしいことを、私はひそかにうらやんだ。)
妹にも聞いてみた。
「夏休みかぁ。そうやなあ。朝は学校のプールに行って、お昼たべて、あとはなんやろう。お昼寝したり、空ばっかり見てたなあ。雲とか」
あの頃。今みたいにメディアやオンラインコンテンツであふれ返っていなかったころ。
私たちはただ、雲をみてすごしていた。
夫も妹もいう。「あの時間はなかなか良かった」
私も思う。
何もせず、暇をうとましく思いながらも、どこか心地よく幸せだった。
何にもフォーカスせず、精神を泳がせ、倦怠感の中でただのんびりとまどろんでいた。
何もしない時間から生まれるもの
「デフォルトモードネットワーク」という言葉がある。
何も考えずにぼんやりしているときにだけ発動する、脳内の神経活動のことだ。
デフォルトモードネットワークが活動しているとき、脳内では集めた情報や考えを整理しているらしい。
そしてその整理された情報がそれぞれ結びついていき、新しいアイデアが生まれる。
つまりぼんやり過ごすと創造性が高まるし、脳内が整理されてスッキリするのだ。
気持ちも落ち着くし、悩んでいたことが勝手に整理されて解決することもある。
そういえば「ひらめき」や「気づき」は、ぼんやりから生まれることが多いのではなかったか。
人はシャワーを浴びているときや寝ようとしているときに、ふと大切なことを思いつくことが多いという。
昔の哲学者たちが散歩をしながらあれこれ考えたのも、ニュートンが林檎が落ちるのをぼんやり眺めてひらめいたのも、デフォルトモードネットワークをうまく活用していたからかもしれない。
人には何もしないでぼんやりする時間も必要なのだ。
ぼんやりする時間を失った私たち


昔の人はとにかくぼんやりしていた。(ような気がする)
この町に越してきたとき、夏になると近所では夕涼みをしている人をたくさん見かけた。
みんな家の前に椅子を出し、何をするでもなくぼんやりとうちわをあおいでいた。
あれからたった十年とすこし。最近では夕涼みをしている人を見かけることはほとんどない。
ひょっとすると今ではもう、家の中でただ寝ころんで雲を眺めている人もいないのかもしれない。
どうしてだろう。人はぼんやり過ごす時間を失ってしまったのだろうか。
ただぼんやりと雲を眺める夏休みこそ
息子は暇が嫌いだ。さらに言うと、彼は暇を知らない。
しょうがない。YouTubeの存在を教えたのも、録画機能のあるテレビを買ったのも親の私だ。
息子を楽しませようと、いつも何か計画していたのも私だ。
小学1年生の1学期は思っていた以上にハードだった。
息子は新しいことでめいっぱい心と頭を使って、朝から夕方までを一生懸命に過ごしていた。
そして帰宅してからはまるで現実から逃げるように、一目散にテレビをつけていた。
ぼんやりする時間なんてまるでなかった。
(あるいはテレビをつけながら、ぼんやりしていたのかもしれない)
それはそれで良いのかもなと思っていた。
スクリーンオフして現実から意識をそらせないと、彼は次の日へ向かえないように見えたのだ。
彼の日々に、何もしていない空白の時間はなかった。
けれどふと思う。
彼のこれからの人生に必要なのは「ぼんやりした時間」なのではないかと。
何かにつかれたとき。何か楽しい経験をしたとき。
ぼんやりと精神をくゆらせて、気持ちを整理する時間こそが、今の子どもたちには必要なのではないだろうか。
「充実感」や「有意義」、さらには「成長」や「効率」ということばに気圧されて、何か素晴らしい夏休みを過ごさなくてはいけないような気がしていた。
けれど今の彼に本当に必要なのは、ただぼんやりと雲を眺める夏休みなのかもしれない。
何もしない小学生の夏休みのススメ
子どもの頃、あれだけ夏休みをぼんやり過ごした私たちでさえ、今では暇を受け入れることができない。
恐れている、と言ってもいい。
手のとどく場所にはいつもiPhoneがある。
ストレス解消、ひまつぶし、と言っては、手の届くなにかで時間と心をうめる。
それでいて、心のどこかできっといつも求めている。
夏休みの、ただ雲をながめていたあの時間を。
そこから生まれる果てしない開放感を。


息子の小学生はじめての夏休み。
どのように楽しませようかとわくわく考えた。
息子に「夏休み楽しかった」と思ってほしくて。自分を「グッド・ママ」だと思いたくて。
あれやこれやと考えた。
けれど。
こんもりと盛り上がった入道雲を見上げながら思った。
うなるほどのひまを味わっておくのもいいかもしれない。
夏休みの初めの日。
1学期を終えた息子は何かを埋めるようにテレビに見入っていた。
「ちょっとぼんやりしようよ」と私がテレビを消すと、「えーーーー」と不満をもらした。
が、ひとしきり不満をもらすと、「暇やなー」とどこかほっとしたように寝転び、ぼんやり視点をただよわせ、そのうち寝入ってしまった。
何もしなかった夏やすみの記憶が、いつか君を助けてくれますように
ただ何もしない夏やすみ。
暇をもてあまし、倦怠感とノスタルジアにひたり、ただ流れる雲をながめる。
今の私たちはきっと、あの頃の夏やすみに助けられている。
心がつかれたとき、あの「ただ雲を眺めていた自分」に戻ればいいと知っている。
今の私たちがあの日々を「よかった」と思えるように、
いつかこの夏休みが、ぼんやりすごした心地よさが、息子の人生を助けてくれればいいなと思う。
念入りにつくった夏休みのスケジュールも(もとから私のキャパシティでは実行不可能)、
妙に焦って買い足した算数ドリルも(うちの子がするはずもない)、
ひそやかに処分した。
少しうすいカルピスをつくり、小さな携帯ラジオを取り出して、私たちは本物の夏休みを過ごすことにした。